「変化に優しい社会」を目指して
株式会社むじょう

ABOUT 会社紹介

変化にもっと優しく

株式会社むじょうは「変化にもっと優しく」というビジョンを掲げています。 死・別れ・解散・衰退。 目を背けてきた「変化」に優しい眼差しを向ける会社です。 主な事業は葬祭関連事業です。 思い出が集まる追悼サイト「葬想式」や自宅葬専門葬儀ブランド「自宅葬のここ」を運営しています。 また、天国の母・父に母の日・父の日の手紙を綴るオンラインイベント「死んだ母の日展」「死んだ父の日展」や棺桶に入り自身の生と死を見つめる「棺桶写真館」など、定期的にイベントを主催しております。

BUSINESS 事業内容

死との出会い方をリデザインする

思い出が集まる追悼サイト 葬想式
葬想式は追悼サイトを無料で簡単に作れるサービスです。 故人を慕う人々が集まり、写真やメッセージを投稿できます。 公開期間中(3日間)はいつでも、どこからでも参加できます。 集まった写真やメッセージは紙のアルバムにしてお手元に残すことができます。
自宅から温かく見送る「自宅葬のここ」
一都三県を商圏とする自宅葬専門葬儀ブランドです。 小規模な葬儀を行う人が増えている昨今、自宅葬は時代にあったお別れの形と言えます。 ペットも参列できる、平服でも大丈夫なアットホームなお葬式を提案しています。
亡き母に贈る母の日のメッセージ「死んだ母の日展」
亡き母に母の日の手紙を綴るオンライン展示会です。 お母さんを亡くした人にとって、母の日は「しんどい日」になることもしばしです。 死んだ母の日展を通じて天国のお母さん宛に手紙を書き、自分の近況などをお伝えいただけます。
死を疑似体験する「棺桶写真館」
棺桶写真館は不定期で開催される入棺体験イベントです。生の間と死の間で構成され、生の間で遺書を書いてから死の間のお棺に向かいます。死をグッと身体の側に寄せることで、生の尊さが浮き彫りになる、唯一無二の体験が待っています。

INTERVIEW インタビュー

【問答】CEO・前田に聴く 株式会社むじょうについて
社名「むじょう」の由来は...?
Q:「むじょう」ってどういう意味ですか? A:「むじょう」の由来は「常が無い」と書く方の無常です。永遠に不変なものはなく、何事も常に変化するという意味ですね。
 Q:なぜ「むじょう」という社名にしたのですか?
 A:私たちは変化にもっと優しい社会を目指しています。特に光を当てているのは「死」「別れ」「撤退」「衰退」といったネガティブに語られる変化です。 このような変化を「無常観」というフィルターを通して眼差すことで救われる人もいると考えています。 この無常観を現代に取り戻すため、社名を「むじょう」にしました。 Q:「取り戻す」ということは、かつて無常観は日常にあったということですか? A:そうですね。かつてはもっと日常的に「しょうがない」という言葉を使っていたと思うんですよね。自然相手の仕事が多かったですから。今でも漁師や農家は日々「しょうがない」という状況に直面します。 海が荒れているから漁に出られない、しょうがない。 今年は寒かったから実りが悪い、しょうがない。 自然相手だと、人間の力が及ぶ範囲がいかに狭く、自然には敵わないということを突きつけられます。

私はこれを「自然への負け癖」と言っているのですが、これが無常観というメンタリティと関係していると思っています。 Q:ほう...「自然への負け癖」と無常観の関係について、もう少し詳しく教えてください。 A:「死」「終わり」みたいな変化って自然に起こりますけど、この自然への負け癖がないと、「しょうがない」って思えないんですよね。 大切な人を亡くして「しょうがない」で済ませられるかというと、そうはいかないですけど、その事実を受け入れる素地があるかという話です。 自然への負け癖がない、つまり死や終わりへの免疫がないと、強いショックを受けることになります。大きな喪失体験ですから、誰でもショックは受けます。
ですが、その喪失体験と付き合って生きていく力は自然への負け癖と関連があるという仮説を持っています。 自然への負け癖を「自然現象がトリガーになって生じた変化に対してしょうがないと受け入れられる力」と定義したときに、その力を端的に表す言葉が「無常観」だったという感じですね。これが「変化に優しい眼差し」にも通じて行きます。
変化に優しい眼差しを向けるとは...?
Q:なぜ衰退などのネガティブな変化に優しい眼差しを向けなければいけないのですか?成長するにはどうしたらいいか、本気で考えるほうが前向きで良いと思うのですが。 A:国力の盛衰は歴史を振り返ると「よくあること」です。事実として受け止めるしかありません。でも、衰退への対処の議論を忌避し、成り行きに任せるのは「よくあること」ではありません。 例えば、病気になるのはよくあることです。病気への対処(=治療法)を考えます。でも、病気への対処の議論を忌避し成り行きに任せたら重篤化してしまいます。今の日本はそれに近い状態です。 子供が成長したら服のサイズを大きくする。親が老いて腰が曲がったら服のサイズを小さくする。このように、非情緒的で計量的な問題として捉えられるのです。 成長するために本気で考えている人は大勢います。しかし、どのように衰退に対処するか考える人はそう多くないでしょう。成長を否定するのではなく、衰退に目を向けることも等しく重要であるという立場です。 Q:やっぱまだわからないのでもう少し聞かせてください。終わりに優しい眼差しを向けることは、情緒的にも感じます。どこに計量的な視点を持ってるのでしょうか? A:当然、情緒的な問題も大きいです。先ほどの親の服のサイズの例をみてみましょう。「サイズ」は計量的な問題です。一方で「親が老いることを自分がどう捉えるか」は情緒的な問題です。衰退などのネガティブな変化を視る時、情緒的な問題が大きく映る傾向があります。そのため、議論を忌避するという反応が起きてしまいます。親の老いから目を背けたいと思う人は大勢いるはずです。 しかし、現実は受け止めなければいけない。その時に、計量的な側面に目を向けることで、向き合う第一歩が踏み出せると思っています。「ブカブカの服よりも、フィットした服の方が気持ちいいよね」と、老いによって生じた変化と付き合っていくきっかけになるのです。

これも1つの「変化に優しい眼差しを向ける」だと考えます。
社会課題を解決しなくていいの....?
Q:Policyに「社会課題を解決しない」と書いてありましたが、それは企業としてどうなんでしょうか...?私はきちんと社会に目を向けて課題を解決しているような会社を応援したくなります。 A:厳密には「社会課題を解決すること」を第一の目的にしないという意味ですね。 「課題」とラベルを貼ることにあまり意味を感じないですし、罪悪感を感じます。 例えば、空き家問題って課題と言われていますよね。確かに「空き家そのもの」は課題です。倒壊したりボヤでも起きたら大変です。 
でも、その課題の根源を探っていくと「家を解体しちゃうと固定資産税が上がる」「先祖代々の家(土地)を手放すのは気が引ける」など合理的な理由があるんですよね。それを「課題だ!」とラベリングしても、空き家の所有者は「わかってる!ごめん!」となるわけです。(まぁ、わかってない場合もあるわけですが) なので、課題とラベリングすることってそんなに意味ないんですよね。むしろ、課題を解決「する側」「される側」みたいな分断が生まれてしまう。その分断は結果的に課題解決の足枷になると思います。 各ステークホルダーの合理性に目を向け「みんなハッピー」な状態を目指した方が結果的に解決への近道だと思います。 Q:ひねくれているようにしか思えません。課題解決こそ、企業の存在意義だと思います。 A:確かにひねくれているかもしれませんね(笑)「課題」が事業の種になることもあれば、「関心事」が事業の種になることもある。種は何でもいいと思います。誰かを幸せにしたり、困ってる人の助けになるサービスが必要とされて生き残るわけですから、最終的に行き着くところは同じなんですよね。あくまで、取り組みの姿勢の話です。 Q:ありがとうございます、色々聴けて良かったです。